昭和48年08月19日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。3年5年の信心では、まだ迷いやすい。10年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」

 みやすう信心をすればよいぞと言う所を頂き違いますと、信心はくずれますこの信心のこの教えの一番頂き所というのは、われながら喜んで、わが心を祭れと仰せられるほどしの、おかげを頂く信心させて頂く者も、皆ここの所のおかげを頂かなければならんし、又それを願わなければならん、自分の心が喜んで祭れるほどしの信心を身につけて、ならそういう信心をする為には、それこそ人の真似のできん様な、火の行水の行の様な事をせんならんかと云うと、決して金光様の信心はそうじゃない。
 そこん所をね、みやすう信心するがよいと仰って、例えて申しますと、タバコを飲む方に、どうぞ灰皿のある所でタバコを召し上がって下さいと、それだけなんですよ信心は。それを灰皿の無い所で、タバコを吸おうとするから間違うんです、危険なんです。私はいつも表へ出てからもうそれこそ、5つも6つもその正面玄関の所で、タバコの吸い殻を拾うです、おかしいなあこういう所でタバコをのんでしかも、それをそこに捨てておると言う事必ず出る度に、思って出たら必ずあるんです。
 そういう事で信心は出来ませんです、だからタバコを飲んじゃならんと云うなら、これは難しいでしょう、けれども灰皿のあるところで、召し上がって下さい吸うて下さい、とよくそう言う様な事が書いてありますね、危険だからなのです、信心もそう言う事をするから危険なのです。例えば信心しよれば、例えば一服しちゃならんと言う事は無いです、なら、ここで修行しよる方達なんかの場合でも、それこそ朝は早い夜は遅い、そこでやはりそこに一服なからなければ、人間の体でもてる筈がない。
 そこで銘々の立場とか休まりがありますから。その合間合間をです、神様お許しを頂いて、横になるもよかろう、一服さして頂くもよかろう、それをまるきり押し入れの中に入って、寝る様な事をする、判らんごとそう言う事をするから、いかにもそれはなんでもないごとあるけど、そういう事がまさかの時に出て来るのです。そう言う事が云うならば、タバコで云うならば、火事を引き起こす様な元になるのです。
 済みませんちょっと休ませて貰いますと、例えば同僚なら同僚に云うといてご覧、決してどうこうと云いもせんし、又時間を云うとるから起こしてもあげます。これは例えばここの修行生だけの事ではありません、お互いの場合でもそうです、温泉にでも行くと先生が行っちゃならんと云うばしのごと、それこそ黙って親先生には云わんどって下さいと、あまり遊びようもんじゃけん気の毒かもん、何か良かもんどんを買うと、こげな贅沢な物ば買うちからと、おごられはせんじゃろうかとこっそりと買う。
 私は信心をさせて頂きよって、そういう事が身に着かなければ駄目です、いちいちお取次ぎを頂いて、というのですから、難しい事ではないと私は思うです。自分の困った時やら、難儀な事だけをお取次ぎを頂いて、自分は楽な思いをすると、楽はすると思うのではなくて、させて頂けとおっしゃるのですから、お許しを頂いてする事ならば、させて頂くのでしょうが、だから、信心を例えば、タバコをのんではいけんぞと云った様な、難しい事ではないと言う事、信心とは。
 只信心とは参ったり拝んだりお願いをするだけが信心のごと思うとる、云うならば信心生活と云われるのですから、私共生活そのものがね、信心になりきるという事なのです、信心になりきるところに、難しいと言う事はありません、信心と生活とを別々に切離しとるから話が難しくなる。それでは何十年信心しよっても、わが心をまつれと云う様な事にはなってきません。今私が申しました様な、例えば行き方を身に、所謂生活の中に、信心がにじみ出て来る様な生活、生活そのものが信心。
 信心する者は何事も真心になれよとおっしゃる、それはなら窮屈な事かと云うと、決してそれを身につけたら窮屈な事じゃない、けれどもそういう例えばタバコのみなら、タバコのみのマナーというものを身につけておればです、決して灰皿の無かところで、タバコのむ様な事は致しませんけれども。もう喰わえタバコでお広前をあっちこっちする人がある、私はもうフルフル好きません、こればっかりは、タバコのみがそういう事ではいけないと思うです、灰皿のあるところでなら。
 家外なら家外でのむならば、その吸うたタバコは散らからん様に、例えばどこにか始末をするとか云う様な心がけなしには、私はタバコ呑む様な事ではいけない、そう云う信心ではいけないと言う事。だからそれを身についてしまえば、私は難しい事ではないと思うのですがどうでしょうか、タバコ飲んで出来んぞと云うのじゃないです、その為に喫煙室もちゃんとあるのです、灰皿も沢山あるのです、決してタバコの事を云ってる訳じゃないですよ、信心なんですよ信心しよるから、こうしちゃならん。
 ああしちゃならんと云う様な、制約されると言う事じゃないです。只信心が身についてしまうと、例えば教えなら教えが、身について来るとです、決してそれを守る事は、難しいという事じゃないという事、むしろ行儀が良くなる、むしろキチットして来るだからおかげもキチッとしたおかげを頂けるようになって来る、そう云う信心をさして頂くならばです、必ずそういう信心が、それこそ10年も続いたら、我ながらわが心をまつれるほどしの有り難い心じゃなあと。
 自分の様なろくそうな人間、自分の様なつまらん人間が、信心させて頂く様になったら、本当の事が判らせて頂いて、本当の事が身について、血肉になっていきよる、ですから、云う事も、行う事も、何とはなしに、信心がにじみ出る様な、人柄というのも出来て来るのだ、我ながら自分の心をまつれるほどしのおかげが頂けるのだ。だからそれを少し難しう云うとです。昨日月次祭のあとの教話でも、皆さんに聞いて頂きました様に、北野の中村さんの生き方、日田の綾部さんの生き方、お話致しましたですね。
 例えば御大祭の前日、履物屋さんですから、十五日十六日がいつも沢山売れる訳です、それで、親先生、明日の十六日の御大祭は朝お参りして来ます、そして夕方又参ってきます、2回お参りします。だから昼の御大祭には御無礼して良いでしょうかと云います、私が、一時黙って返事しなかった、自分が耳が遠いもんじゃけん、私も耳が遠いので又そげん云いなさるけん私が申しました。
 中村さんあんた時々判らん事云うねと、私が申しました、もうその一言でしたよ、ハーッと私はね本当ねそれはどうかと云うと、判っとる知っとるのですよ、自分が婦人総代で、玉串上げんならん事も、又総代としての大祭が、どんなに大事なものかと言う事を知っておるのですよ。けれどもそこにちょっと我情が出た時にです、我情が出た時に我欲が出た時に、沢山売れる日を、戸を閉めて来ると云う事は、娘は楽のご用を頂いとる、娘婿もお参りする様な事になる。
 それで自分が一人店を開けといて、まあ盆の売出しにおかげを頂く様にと云う事であった。こげな事云うたら、親先生がおごんなさるかも判らんばってん、一丁という訳ではなかったでしょうか、けれども私は、あの辺のすばらしいのに、いつの場合私は、皆さん云うち下さい云うち下さい、悪かとこ云うち下さいと、云う人がありますけどね、この位判るならと云いよかですほんなごと。もうその事どうこう交わす言葉もなかった、時々あんた判らん事云うねと、もうそれこそ判らん事を云いよる事は。
 自分も知っとるとじゃから、ハハッと云うだけなのです。そして昨日お参りをして来てから、お礼をお届けがあるのにもうほんと、私は永年の信心をさせて頂いて、間違ったら、親先生からおしかりを受けて、おかげを頂いておかげを落さんですむというて、昨日は喜んどられます。先生もうこれはいつもの事ながら、不思議な事でありますと、初美が今日はもうタクシーで行くけんで、何時には来るごとしとるばいと云うから、そんなら早うご飯を頂こうというてご飯を頂いた。
 そしたら思いががけない人が、今までこの人顔も見た事のないというお客さんが、次ぎから次とあってしかもそれが、高級なものばっかりが売れて、これはもう初美さんあんたもう、半日分は売れたばいと云う位、おかげを頂いた。それこそ喜び一杯で御大祭を頂いて5時ごろ帰った、さあそしたら5時から店を閉めるまで、お客さんがずうとあったそうです。そして去年まで御大祭は(20日)ですから良かったけれども、16日の大売出しをする時と、同じ売上げがあっておったというのです。
 これはもう中村さんの名せりふですけどね、親先生信心はねもうお参りのし儲け、お供えのし儲けですばいと云うでしょうが、お参りのし儲けなんだ、お供えのし儲けなんだ、正しくお供えのし儲けであり、お参りのし儲けである事が判るでしょう。昨日私は綾部さんの例をとりました、それも昨日お届けがあったんです、ちょうど娘達夫婦盆にあるきに来とった15日、野口さんとこの告別式を頂いて帰ろうとしよったら、秋永先生が今日は帰る事が出来るもんかい、今日は前夜祭ばい。
 支部長さんがおらんてんなんてん出来るもんかい、秋永先生今日は帰らして下さい。今日は娘達が今日は最後のまあ、御馳走の一つも親としてしてやりたい、そして娘婿に対する気兼ねも少しあるもんですから、秋永先生済みませんけれどもと云うて帰った、まあなるほど親子水入らずで、お食事をしたから、有り難かっただろう、ところが帰ったけれども、もう電話が掛かって来んならんという時分になっても電話が掛かって来ん、そろそろ心配になったそしたら、11時頃電話が掛かって来た。
 第一番にお母さん今日はおかげ頂いたと云うて、絹子さんと云いますか、今日はあれから帰りよったら、ドシャ降りで崖崩れがあった、それがほんな今あったと言う事じゃった、もうそれを聞いてもうそれこそ、もう身の毛がよだったと云うてから、綾部さん云うとられます。それが迂回の出来る所をやっとかっと、もうそれこそ自動車の外へ首をこう出してから、一寸刻みで通らして頂いて、時間が大変掛かったけれども、まあおかげを頂いたので、どうぞお礼を申し上げて下さいと云う電話だった。
 丁度その前の日に、前の日かどうかしらんが、秋永先生がそれを云うた後に、私は綾部さんあんたを止めたけど、あんたが止まらじゃったから、私は丁度11時頃じゃったが、絹ちゃんがこつば一生懸命お願いしたよと云うて云いなさった、丁度秋永さんが11時に御祈念して頂きよる時間にそう言う事じゃった。本当に私に信心がもちっと出来とったら、もう明日は大祭絹子さん今日帰らんで、明日の御大祭を頂いて、そして帰ったっちゃ遅うなかばいと、云えなかった事が残念だったと云うお届けがありました。
 だから、中村さんの話を聞いて頂き、綾部さんの話を聞いて頂き、それが身についておれば、実を云うたら難しい事ではないでしょうが、だからそう云う場合も、信心の中にはあるという事です、ね、中村さんじゃなかばってん、商売投げ打たならんという様な度胸のいる事もあるけれども、中村さんの場合なんかは、もう体験を頂く上にも頂いて、実は、知っちゃるです。
 だからあんた時々難しい事云うねと、云われただけです、わからん事云うねと云われただけです、ハーッとわかる、だからそれを身につけたら、難しい事はないでしょうが。なら綾部さんが娘に、只娘婿にちょっと気兼ねがあったからです、今日愈々わざわざでん、遠方から参って来なさるとに、15日までおかげ頂いとるとじゃけん、明日の御大祭を頂いてから帰らんねと、どうして云わじゃったじゃろうかと。
 秋永先生にご祈念どんして頂いとらんなら、ほんにどげな事があっとるじゃい判らんと云うて、昨日お届けがありました。信心は見やすいもの、決して信心は難しいものじゃないけれども、信心が本当に自分の身について、血肉になって行きよるなら、決して難しい事じゃない。タバコのみにどうぞ灰皿のある所でタバコを吸うて下さいと、云う位な事なんです、それをタバコをのむ者が灰皿のない所で、タバコを吸うたりするから、それは危険だからそう云うのです。
 お広前ば云行ったり来たりするとに、喰わえタバコをして境内に、いきなりタバコの吸い殻を捨てたり言語道断です。信心は見やすいものじゃ、信心はタバコを吸うては出来んぞという事ではない、灰皿のある所でタバコを吸いなさいよと、どう云う事に至るまで、良い事悪い事一切をお取次ぎを頂いて一服するならしなさいよ、決して寝ちゃならん長うなっちゃならん、と言う事じゃない、それをこっそりと判らんごとしよるから危険だ、愈々の時にそういう信心が身につく時です。
 所謂生活の中に信心がしみこんでしまう。おかげを頂いたらそれでも3年5年ではまだ迷いやすい、10年と信心が続いたらわれながら我が心をまつれ、我が心がまつれるほどしの、信心を身につけて行こうと言う所にです。私はこの六十九節の御教えがあろうと思うのです。私は今日御神前で只今の事を頂いた、そしたらご理解もちょうど六十九節だから、そういう意味で今日は頂いた。
 信心ちゃ見やすいものじゃなぁと、タバコのみにタバコのむなと云うのは難しいけれども、灰皿のある所でタバコをのみなさいと云う位にしかない、信心を身にそれが参った時、拝んだ時頼んだ時だけ、もう常日頃は、もう信心のない者と同じに変わってしまっておると言う様な事では、我心がまつれると云った事は、とてもとっても、出来る筈はありませんですね、勿論お徳を受けて行く筈もありません。
   どうぞ。